2009年8月25日

青森ねぶたの起源

以前、起源としてよく知られていたのは、のちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において、敵を油断させておびき寄せるために、大蟷螂・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として、1962年に「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更されている。後述)。しかし、田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の一つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流である。

このほかにも八切止夫が「ねぶた」という言葉の語源から推察した説も存在する。 かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、征東大将軍紀古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだ阿弖流為という王が東北にはいた。その後、大陸の援助で鉄武器を大量に補給された坂上田村麻呂らと12年に渡って戦ったが、最後には制圧されて蝦夷は滅びた。 阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され朝廷に謁見後、斬首、さらし首にされたが、東北に残っていた妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたとされている。その生き埋めの上に土をかけ、その土を素直に降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のねぶた(根蓋)の起こりであるとされている。 つまり『根』(死)の国へ追いやるための土かぶせの『蓋』ということである。踏んづける恰好をする踊りに坂上田村麻呂の山車を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現しているとされている。 ただし、八切止夫の語源解釈は歴史学・国語学の方面では学術的意義を認められていない。

藩政時代や明治時代、特に明治時代には、大型の灯籠を担いで町中を練り歩く行為に対し、しばしば禁止令が出された。戦時中も禁止されたが、戦況が悪化した1944年には、戦意高揚の為に解禁されている。戦後は企業がねぶた運行の主体となり、観光の側面が強くなるようになった。人形型ねぶたは、元々は竹を曲げて骨組みを作り、指等の細かい部分は、その上に貼った和紙に筆で描いていた。昭和30年代に、北川啓三氏(後に、ねぶたの神様)と評されるねぶた師が、針金を用いて指を1本づつ作ったり、複雑な造作のねぶたを作ったことによって、ねぶた界に革命が起こる。針金が登場した当時、一部では反発があったと言われている。

北川氏によって、ロウソクだった内部の明かりを蛍光灯に替え、台座にバッテリーを乗せ、明るく輝くねぶたを作ることに成功し、より芸術性と完成度を高め、後に「ねぶたの神様」と評される。北川氏は既に他界しているが、現在の主流となっているねぶたの磯は、北川氏が築いたと言える。ねぶた作りは、1,主題の決定、2,設計図となる下絵作り、3,パーツとなる細部の製作、4,パーツ類を配置する為の骨組み、5,明かりを灯す為の電気配線、6,針金の表面を覆う紙貼り、7,紙の上に黒いフチや線を描く書割、8,着色時の色の混濁を防ぐロウ書き、9,白地に彩色する色付け、10,持ち上げて台座に設置する台上げと言う、これらの10の工程を経て完成する。この長い工程の内、立体になる前段階の作業が最重要だと言う。現在では最大サイズとして、幅9m,奥行き7m,高さ5mと言う規定がある。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

青森ねぶた、一度でいいから見に行ってみたいですね。

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